草加小話

埼玉県草加市での暮らしで拾ったエピソードとそうでないエピソードを綴ります。

麦倉忠彦氏を追悼する~「草生人」インタビュー転載

↑「草生人」麦倉忠彦氏インタビューのメイン画像

2025年1月26日、彫刻家麦倉忠彦氏が逝去されました。享年89歳でした。
草加のフリーペーパー『草生人』(休刊中)の2016初秋号、特集「草加とアート」で麦倉忠彦氏にインタビューを行いました。ここに転載しますので、ぜひご一読いただき麦倉氏の業績を思い出していただけたら幸いです。

数々の彫刻が草加のイメージを決定づけた
彫刻家 麦倉忠彦さん

必ず裏側に回る彫刻家の癖

 草加松原遊歩道の出発地点、札場河岸(ふだばかし)公園に立つ「松尾芭蕉翁像」は、宿場町草加のシンボルと言ってもいい存在だ。
 このブロンズ像は草加市生まれ草加市在住の彫刻家、麦倉忠彦さんによる作品だ。麦倉さんの彫刻作品は草加市内のいろいろなところに設置されていて、草加市の景観を支えている。
 麦倉忠彦さんは、1935年11月20日草加市稲荷町で生まれた。終戦を迎えた小学5年生ごろから絵に興味を持ちはじめ、中学生のころには「絵を描く職業についてみたい」という気持ちを抱き始めたという。
 以後、埼玉県立春日部高校では美術部で「芸術三昧、美術三昧」の生活を送り、東京藝術大学では「彫刻家の一番の切り札」というデッサン力を磨き上げ、現在も数々の彫刻作品を生み出し続けている。
 麦倉さんの生家は永禄8年(1565年)開山の寺院、慈尊院だ。お寺で生まれ育ったことは美術的感性に影響があるかお尋ねした。
「仏像は見るだけじゃなくて触っていました。掃除をしなくてはならないんで。意識はないけど、今思うと影響を受けたのかなと思います」
 こうして麦倉さんは彫刻家ならではの独特の「癖」を獲得した。
「私は職業的な癖として物の裏側も見ます。立体として見るんですね。必ずものの周りを一回りします」

振り返る松尾芭蕉像は草加でしかできないポーズ

 松尾芭蕉の『奥の細道』には「その日やうやう草加といふ宿にたどり着きにけり」という記述がある。芭蕉は深川から千住まで舟で行き、そこから歩み始め、その日のうちに草加宿に到着した。
 1989年(平成元年)が松尾芭蕉奥の細道の旅立ち300周年だった。その節目に向けて、草加市では「奥の細道」をキーワードにした様々な事業が実施された。
 市民団体「草心会」の呼びかけで「芭蕉像をつくる会」が組織され、麦倉忠彦さんに制作が依頼された。
 準備期間は1年しかなかった。麦倉さんは急いで芭蕉について勉強して、自分なりにイメージを作った。 
「資料を読むこともほかの人の作品を見ることも大切ですが、見過ぎたり読み過ぎたりすると誰かのコピーになる。アーティストがやってはいけない一番恥ずかしい行為は人の真似です」
 だから「勉強はほどほどで、あとは感性で」イメージを描いていった。
 そして草加市民に深く浸透した、あの芭蕉の風貌と佇まいが作り上げられた。旅装束の芭蕉は、足は前方に踏み出しながらも、首は後方を振り返っているのである。
 150日間に及ぶ「奥の細道」の旅の1日目。千住宿から8.8km、日光街道第2の宿駅、草加にたどり着いたときは、芭蕉の心の中はまだ千住への名残惜しさが強かったはず。
「これはすぐひらめきました。草加のこの界隈じゃないと出ない自然なポーズです。利根川の向こうに行ったらこのポーズはおかしい。草加のオリジナルです」
 当時、麦倉さんは「芭蕉像をつくる会」の人たちといっしょに芭蕉の足跡をたどるバスツアーに参加した。
 麦倉さんは芭蕉像の案のスケッチを持参した。自信作の振り向く芭蕉像と、もう一案用意していた。バスの中でみんなに見てもらい、アンケートを取った。
「これがいい!って、振り向く方の像が人気があったんですよ」
 ちなみに選に漏れた対抗案も、麦倉さんによると「ドラマチックな動きのある作品」とのこと。そのスケッチは今でも保存してあるそうだ。

20年を隔てて作り上げた河合曾良

 奥の細道芭蕉随行した河合曾良のブロンズ像が、芭蕉像から南60メートルほどのところの「おせん公園」内に設置されている。曾良は前を行く芭蕉に向かって手を差し出し、追いかけているような姿勢を取っている。空間を隔てて2人の関係が読み取れるような面白い構図だ。
 だが、曾良像は空間だけでなく時間もまた隔てて芭蕉像を追いかけたのだった。曾良像の完成は芭蕉像が完成してから20年も後のことだったのだ。
 当初、芭蕉像と曾良像の2体を同時に作りたいという希望もあったという。だから芭蕉像が完成したあとも、市民団体「草心会」の人たちは曾良像を作る夢を捨てていなかった。
「20年間その情熱を暖めていた草心会と、代表の青柳優さんのエネルギーはすごいと思いますね」
 だがいざ作ろうとすると、麦倉さん自身にも苦労があった。
「20年の隔たりが、作品の差として出ないようにする努力も大変だったんです」
 芭蕉像を作ったときが50代。それから重ねてきた20年という歳月を埋めるため、麦倉さんは芭蕉像の原型を傍らに置いて、曾良像の制作を進めたという。

街に溶け込む彫刻、おせんさんとアコちゃん

 草加駅東口の駅前広場に設置されたブロンズ像「おせんさん」と「アコちゃん」が一般的な彫刻と違うところは、見上げる位置にないことだ。
 おせんさんは広場に面して左手側の、アコちゃんは右手側の屋根つきの休憩所に「ある」というより「いる」。
 テーブルを囲んで複数設置された椅子の一つに座っているのだ。
 草加で買い物などしてちょっと休憩、とその椅子に座ったときに、隣の人が銅像だったと知って驚く人もいる。また、おせんさんなどとくに、なぜかよく触られる。幼児がおせんさんの両腕の間に入り込んで抱っこされる様子を見かけたこともある。
 アートを街に溶け込ませようというテーマがあるが、最大限に溶け込んでいる例がこれだと言えるのではないだろうか。
 おせんさんという名前は、草加せんべいの伝説上の創始者「おせんばあさん」から採られた。座布団に正座して、草加せんべいならではの押瓦(おしがわら)と箸を使ってせんべいを焼いている。ただし麦倉さんのおせんさんはおばあさんではなく若い女性だ。
ジーパンはいた現代女性にしちゃった」と麦倉さんは言う。
 そもそもどんな経緯でこの2作品が作られることになったのだろうか。
草加駅前の開発計画の中で、その辺に置く彫刻を何か考えてください、という依頼があった」
 そこからせんべいを焼く女性とせんべいをかじる少女、という草加ならではのモチーフを創出したのは麦倉さん自身なのだった。
 ところで、おせんさんのモデルは麦倉さんの奥さんで、アコちゃんのモデルは姪御さんだという。そんなところも、この作品の実在感の要因なのかもしれない。
 街角の彫刻に親しみを持ち、そこから街への愛着をさらに深める。麦倉さんの彫刻作品は、草加に住む人や草加を訪れる人々の心をそんなふうに変えてきたのではないだろうか。

----------------------------------------------------- 

【麦倉忠彦氏略歴】
1935年草加市生まれ
1954年埼玉県立春日部高等学校卒業
1959年東京藝術大学美術学部彫刻科卒業
1961年東京藝術大学研究科彫刻専攻修了。同大学研究室副手
1963年アメリカ合衆国サウスダコタ州、K・ジョーロコフスキー彫刻研究所に留学
1963年安宅賞・新制作協会新作家賞。新制作協会会員(1999年に委員長)
2000年草加市文化会館にて草加市文化賞受賞記念展開催
その後、埼玉県美術家協会彫刻部参与、九州産業大学大学院教授、共立女子大学講師などを務めた。

----------------------------------------------------- 

草加市内にある麦倉氏の作品】
「朝の挨拶」草加市中央図書館(1972年)
「双葉」草加商工会議所(1978年)
「松蔭の流れ」スポーツ健康都市記念体育館(1985年)
「緑の芽」稲荷コミュニティセンター(1985年)
「クローバー」高砂小学校(1986年)
「友愛」新田中学校(1989年)
「松庵芭焦翁像」草加宿札場河岸公園(1989年)
「あしたを聴く」草加駅東口(1990年)
「アコちゃん」「おせんさん」草加駅前アコス広場(1991年)
「芽下美人」草加市文化会館コミュニティ棟(1993年)
「日だまり」草加市中央図書館(2000年)
「あやせの守」金明通り(2004年)
河合曾良像」神明1丁目おせん公園(2008年)

-----------------------------------------------------