草加小話

埼玉県草加市での暮らしで拾ったエピソードとそうでないエピソードを綴ります。

野球に挫折して政治家になった!? ー 今井宏氏インタビュー

3月3日に元草加市長で元衆議院議員今井宏さんが亡くなりました。私の母校、埼玉県立春日部高校の先輩にあたり、政界引退後は高校同窓会の会長を務めていらっしゃったので、知己を得ることができました。

2019年2月14日、春日部高校同窓会草加支部の会員向けの冊子『草加春高会だより』の記事のために、今井宏さんにインタビューしました。

掲載したのは短い文章だったのですが、細かいところがいろいろ興味深かったので、こちらにほぼ全文を載せてみます。野球の話ばかりです。

大下が草加に来た

●今井さんは春日部高校には何年に入学しましたか?

小学校は昭和29年の春、3月に卒業。中学校は32年の春に卒業。高校は昭和32年春に入学し、35年3月卒業しました。中学から各学年で7、8人は春高(かすこう)に行ったね。

●野球はいつから?

僕は物心ついたころから野球だったね。小学校のときからねずっとね。小学校ではクラス対抗戦とかやってた。小学校は野球部はなかった。スポーツ少年団もなかったし、少年野球大会もなかった。

でもやっぱり野球好きの大人は野球やってて、草加市野球連盟があった。

戦後まもまく大下(大下弘プロ野球選手。終戦直後の日本球界を代表する存在)草加に来た。川上、大下、千葉の時代。その大下が草加に来て小学校の庭で野球やるわけだ。パンと打つと外に出ちゃうんだよ。校庭外に。「わあすごいなプロ野球は!」って興奮した。

そのとき大下が使ったバットが、今くにのべ歯科医院がある場所にあったおもちゃ屋のウインドケースに飾ってあった。みんな見に来るわけだよ。おもちゃ屋の親戚に大下の知り合いがいて、その人の案内で草加に来て、草加の大人と試合をやらせてもらったんだね。昭和の23年……24年ぐらいかな……。戦後プロ野球が復活してすぐのスター選手だからね。

足が速くて大人に勝った

●日本人はみんな野球が好きだったんですね。

昔は野球だけだった。女子がドッジボール。サッカーはなかったね。
俺は野球は政治よりうまい(笑)。足が速かった。自慢じゃないけど、僕の2級上の人とだいたいいっしょだね。

中学2年生のときから大人の草加市大運動会に出ていた。草加中学校のグラウンドから走る1万メートルレース。川口の安行に行って帰ってくる。中学生が4、5人出てたかな。僕は大人相手に5位くらいで帰ってきたね。40分台で。

大河ドラマで「いだてん」やってるじゃない。「スースーハーハー」っていう呼吸法があったけど、僕は知らなかった。でも大人に混じって5番で帰ってきた。
次の日の朝の朝礼で校長先生が「よくぞ子供のくせに大人に勝った!」って、えらい褒めてくれた。賞品に竹箒とか醤油とか、コンロ、七輪をもらった。

春高でも走ってた。1年生のとき市民駅伝大会ってのがあってね、野球部連れてきて4、5人で走った。軽く優勝だったね(笑)

●勉強より運動?

いやあ勉強なんてしないよ!(笑) 親が頑丈な子供に生んでくれたんでしょう。運動神経もかなりある、普通の人と比べたら。

やっぱり母親やおばあちゃんの影響は大きいよね。体力に恵まれたから、だいたい1、2級上の人とボール投げしても走ってもなにやっても勝ってたよ。

勉強はできたうちに入らない。でも俺はオール5だった、音楽だけ除いて。

●中学のときもピッチャー?

小学校からずっとピッチャー。中学1年生の秋の大会にはもうエースだった。春日部高校では春の大会から全部エースだよね。春の大会って入学するとすぐでしょ。

●え!? いきなり?

中学とき埼玉県で第3位だったしね。だから入学式の前に来るように言われて練習に行った。

春高に行ったらエースが当然いる。で、その場に上尾高校引き連れて甲子園に行って、そのあと浦和学院に行った野本喜一郎監督を、うちの部長が上尾から連れてきていた。
野本監督の前でピッチャーが全員投げた。そしたら野本監督が俺のことを「こいつがエース」って言った。

当時の先輩のピッチャーとは今でも仲がいいよ。新入りにエースを取られたら普通頭に来るんだけど、野本さんに言われたから従ったんだね。

先輩は「お前のほうがピッチングはよかったけど、バッティングは俺のほうがよかったからな」(笑)って。ホームランバッターでね。

●今井さんはバッティングは?

ピッチャーで4番だよ。どこでもそうじゃない? 高校でも大学でもそうだよね。野球のセンスがあるのがピッチャーやるから。打つほうだって野球のセンスだからね。

俺は野球と喧嘩はめっぽう強かった(笑)

松本のドロップ。ドーンと落ちる

●高校1年生のとき、部は強かった?

1年生のときがいちばんよかったんだよ。県でベスト16。夏の甲子園予選で野本さんが見に来てくれた。来てちょっと見て、これはものになると言ってくれた。それでほかのピッチャーが2人いたんだけどずっと俺が投げることになった。

1年生の春の大会から投げて、夏の大会は優勝した学校とか準優勝した学校をばたばたやっつけてベスト16、準々決勝まで行った。

●変化球が今とちがいますよね

今とぜんぜんちがう。だいいち名前がちがうでしょ。僕はドロップがね、「松本のドロップ」って言われるくらいで、もうドーンと落ちるんだよ。シュート投げてのけぞらせて、それでドロップを落とした。※当時の今井さんは松本姓でした。

俺のボールはビューっと来て、角度があるんだって。だからだいたいみんな引いちゃうんだよね。

あのころ春高ってすごくてね、甲子園に出場した栃木の足利工業高校に練習試合を申し込むと、受けてくれた。埼玉でベスト16だから受けてくれた。

せっかく足利に行くなら、もったいないから足利高校と1日2試合やっちゃおうと。2試合完投だよ。

●すごいですね!

おれも絶好調だったんだね。とにかく9✕2の18回投げてきた。だから夏は優勝候補って言われたわけだよ。

そのころ王貞治さんが有名で俺の1級上だった。だから「春高に松本あり」って載った報知新聞の一面が王さんでさ。

ところが2年になったら1回戦で負けちゃうんだよ。川越商業に負けたんだけど、横沢さんっていうプロ野球の審判やってる人が監督で川越商業にいて、プロの目ってはやっぱりちがうんだよね、あの人に僕のドロップという魔球はどうやって打てばいいか、っていうのを研究されたんじゃない? きれいにやられた。さすが横沢さんはすごいなってみんなで感心した。

僕の1級上の人には申し訳なかった。

そのときには最後の試合でホームランを打ったキャプテンの高橋さんは立教の野球部に入った人。それが僕の1級上。そういう人たちが周りから優勝候補って言われて、もう張り切ってやったんだ。結局俺がボコボコ打たれちゃった。ほんとうに申し訳なかったね。

●攻略法が進んでいたんでしょうか。

と思うね。う~ん。
1年のときけっこうかっこよくやったから、春高新聞に「小さな大投手」って取り上げられてさ、5尺5寸5分、体重16貫だったから。それで周りも見るし、春女(かすじょ=春日部女子高校)の女の子もキャーキャー言うし(笑)

結局、努力が足りなかったんじゃないの?

3年の夏、ヒーローになる

●3年ではどうでしたか?

翌年、3年の夏の大会、栗原知事や国会議員などのお歴々が観に来て、開会式に続く第一試合、春日部高校対熊谷農業でアクシデントがあった。3回の攻撃で打席に立った僕の左肘にボールが直撃した。

でも痛み止めの注射を打って包帯を巻いてマウンドに立った。左腕は動かないので、キャッチャーからの返球は内野手からゴロで渡してもらった。

結果的に完投して、9対5で勝っちゃった。翌日は新聞記事になるし、漫画にもなったよ! 少年マガジンかなんか。あの漫画どっか行っちゃったな。

●ヒーローですね!

その次当たったのが川越高校で、それで負けた。川越高校は優勝して甲子園に行くんだよ。

痛みはとれていたけど、やっぱり左腕は包帯で縛らざるを得なかった。

●バランス悪いですね。

うん。でも僕が絶好調で投げても、川越にはかなわなかったろうね。川越高校は甲子園大会でもずいぶん勝ったよ。吉田っていうピッチャーなんだけど、これが早稲田の野球部に入るわけですよ。俺は1年浪人したから、遅れて入るんだけど。

甲子園組のピッチャーの球は「バッ!」と来る

●次は大学野球ですね。

夏の大会が終わると、大学からオファーがあるわけ。俺は早稲田大学と立教、それから法政、亜細亜、この4つからオファーがあってね。大会終わってから大学に来てほしいって。練習に参加してくれ、っていうわけだ。

そこに呼ばれて行ったわけだよ。ピッチャーが全国から呼ばれていて並んでいる。それで順番に投げる。ぱっぱっぱっと。採点する。このピッチャー、よし、とか何点とか、って。

俺がこうピーっと投げるでしょ。アウトコース低め。これがいちばん打ちづらいわけだよね、バッターから遠いし。アウトコース低めをコントロールよく投げるのが基本なんだよ。

僕のイメージは「シャー!」。あのころはスピードガンがないから何キロかわからないけど。で、オールジャパンの甲子園組、プロ行くか大学行くかっていう。全国から2、30人来てたな。そんなピッチャーが投げるでしょ。「バッ!」て来るわけだよ。

僕はせいぜい120キロだったんじゃないの。オールジャパンの人は130からことによったら140ぐらい投げたかもしれないね。

野球の挫折は彼女に振られるようなつらさ

●差が見えてしまいますね。

それで坂本という早稲田の2軍監督が「今井君は……」と話しかけてきた。ああもう今井になってたんですよ、春高卒業と同時に今井家に入って。

「今井君は将来なにやるんだ? ノンプロでも行くのか」って言うんだ。

「いやノンプロなんか行きませんよ」と答えた。「僕は政治やれって小学校から言われているから、政治やるんです」って。

そしたら坂本2軍監督が「お前は俺と同じで、頑張ったってせいぜい2軍監督だ」って言うんだよ。

坂本さんは1シーズンだけ花咲いてね。あのころは長島がいてピッチャー杉浦がいた立教がずっと連勝してたわけだよ。そこへ早稲田が立教の連勝ストップさせるんだよ。そのストップさせたのが坂本なんだよ。

坂本は俺と同じくドロップがあった。ボン!と落ちる。直角なんてありえないけど、表現としては直角に落ちるドロップだ。

だから、坂本さんは「お前は俺とよく似てる」と言った。

「俺だって4年間野球やって、花咲いたのはたった1回だけだ。早稲田で野球やるのもいいけど、試合、合宿、練習、試合、合宿、練習、試合、合宿、練習だ。お前は政治やるならちょっと考えたほうがいいんじゃないか」

それは彼女に振られるほどつらかったね。挫折だから。

俺は埼玉球界では絶対いいピッチャーだったけど、六大学は違った。六大学はピッチャーもキャッチャーもバッターも守備の人もすべていい。神宮で投げる人は絶対の自信で行く。そんな全国区で比較されたらとんでもないわけだよ。

俺よりうまい、ってのは見てすぐわかった。ボールが速いってのは。

それでさらに坂本さんにそう言われたでしょ。それで決断したんだよ。野球から足を洗うと。

●見切りが早いですね。

俺は決断すると速いからね。

でもショック受けるよね。だって自分じゃうまいと思ってたんだもん。神宮で早稲田のユニフォーム着て、試合で投げられると思ってたわけだから。

でも無理だった。すぐわかった。オールジャパンから見ると、小さな埼玉県でいいピッチャーであっても。

六大学って全国からくるからね。埼玉のこんな小さなところから出たピッチャーなんて、全国レベルからしたら井の中の蛙だったわけだよ。自分でわかった。

●それで政治の道に邁進した。

うん。政治の道は小学校時代から決めてたからね。そのままずっと行ったってこと。

これは仮の話だけど、もし僕が身長1メートル85センチぐらいで、僕と同じセンスを持ってたら、野球をやったと思うんだ。少なくとも大学野球は。政治はどの道やるとしても。

そうしたらまるで違った感じになったんじゃないかな、とたまに思ったりする。

でもこればっかりはしょうがないよね。だって兄弟でいちばん小さいんだもん。厚(弟の松本厚さん)とか兄貴(松本孝さん)のほうが大きいでしょ。

僕の子供は183センチぐらいあるんだ(笑)

●180センチ以上あったら、政治の活動開始が遅れたかもしれませんね。今井さんの政治活動は早い。議員、市長、衆議院議員。議員やめるのも早い。

おれは退く美学っていうか、退却の美学。美しくやめなきゃと思っていたから。司馬遼太郎の小説の影響だよ。

青島健太さん(春日部高校卒業生。社会人野球の東芝を経てヤクルトで活躍。現在は参議院議員)プロ野球に行くかどうかというとき、やめろとアドバイスしたそうですね。

県大会での優勝決定戦で市立浦和に対して、彼は2本ホームランを打って逆転し優勝するんだから、それはヒーローだったよね。関東大会であと1試合勝てば翌春の選抜に選ばれるところだった。

それで監督の田中親良先生から電話があって、優勝したら金集めなくちゃいけないから野球部OB会を作ってくれと言われた。でOB会を作った。

青島は東芝に行ったあと、プロに行きたいって言うから、だめだって言ったの。彼はちょっと膝が硬い。派手なトンネルするんだよ。だからプロに行くんじゃねえ、って。そのまま東芝にいれば間違いなく東芝の監督になるし、東芝の役員にもなれるし。

●でもスポーツジャーナリストとしてはプロの経験は大きかったですよね。

いい文章書けるしね。日本ペンクラブの正会員だからね。筆が立つんですよ。
青島は当時から俺んちしょっちゅう来てるよ。今年も何回も来てる。

<2019年2月14日 今井宏さんのご自宅にて>

 

今井さん、ありがとうございました。