草加小話

埼玉県草加市での暮らしで拾ったエピソードとそうでないエピソードを綴ります。

分かれていろいろあってまた出会えた。兄弟のような会社、写研とモリサワ。

かつて本や雑誌を作る過程には版下作成というものがあった。版下にはびっしり文字が焼き付けられた印画紙が貼り付けられていた。写植というものだ。

校正して完璧になった版下は晴れて印刷所に持ち込まれ、次の工程に進む。

写植といえば写研という会社一択だった。明朝にゴシック、ゴナやナールなど「愛のあるユニークで豊かな書体(写研の書体見本帳に用いられたコピー)が豊富に取り揃えられており、写植のスタンダードだった。ほかにモリサワという会社もあったが、マイナーで見向きもされなかった(とくに関東では)

それが今では全く逆なのだ。パソコン(MacでもWindowsでも)でデザインしたりレイアウトしたりするこの時代においてはモリサワがメジャーでスタンダード。写研はすっかり姿を消してしまった。

写研はどうしたのか。そしてモリサワはなぜスタンダードになったのか。ちょっと調べてみた。

写研の創業者は石井茂吉(いしい もきち、1887年7月21日 - 1963年4月5日)。モリサワの創業者は森澤信夫(もりさわ のぶお、1901年3月23日 - 2000年4月27日)。石井のほうが14歳年上だ。

1923年に森澤が星製薬に入社する。SF作家星新一の父親が創業し戦前は東洋一とも言われた製薬会社だ。

石井は翌1924年に星製薬に入社(東京帝国大学機械工学科を卒業し神戸製鋼勤務を経て)。

つまり写研とモリサワそれぞれの創業者は会社の同僚だったのだ。星製薬には印刷部というセクションがあって、そこで2人は日本語に適した独自の写真植字機を開発して特許を出願した。出願したのが1924年で、翌1925年に特許が成立した。

1926年、石井と森澤は共同で「写真植字機研究所(のちの写研)」を設立した。

やがて森澤は石井から離れ、1948年、独自に「写真植字機製作株式会社」を創業した(1971年にモリサワに社名変更)。

1963年、石井茂吉が亡くなり、三女の石井裕が写研の社長に就任した。

石井裕子は強気の経営をした。写植機は高額だった。写植屋はそれを買うしかなかった。1980年代半ばには関東で8割、関西で6割の書体占有率を誇り、莫大な年商を上げる大企業になった。

儲かっているから経営方針は変えなかった。変えないまま時代から取り残された。

1990年代、アメリカのADOBE社がDTP用のフォント開発を写研に持ちかけたが、石井裕子社長はそれを蹴ってしまった。

ADOBE社は仕方なく業界2位のモリサワに提携をもちかけ、モリサワは合意した。

こうしてモリサワDTPのフォントのデファクトスタンダードになった。そして年商が写研を抜いて業界首位になった。

DTPが普及するにつれて写植は廃れ、写研は業績が急激に悪化した。

2018年に石井裕子社長が92歳で亡くなった。写研は事業規模を縮小し、膨大な資産を売却した。

森澤信夫は1975年にモリサワの社長の座を退いて会長職に就いていたが、2000年に死去した。

2021年、モリサワと写研が共同事業として写研書体のOpenTypeフォント開発を進めることに合意したと発表。1924年に石井茂吉と森澤信夫が行った邦字写植機特許申請100周年に当たる2024年から順次提供する。

写研の「愛のあるユニークで豊かな書体」がモリサワの協力でまた使えるようになる。

写研とモリサワはその始まりから見ると兄弟のような会社だった。分かれていろいろあってまた出会えた。

写研 - Wikipedia

モリサワ - Wikipedia